鍛鉄工芸家にしてトライアスロンを走破
写真に写された家族への愛
ロートアイアンに寄せる想
作品の完成系、開拓者としての使命感
鉄人の素顔に迫る独占インタビュー
■鍛鉄工芸家を目指した理由について、教えてください。
目指してきたわけじゃなくて、だんだんこうなっちゃった、という感じがほんとうのところです。成り行きですね。
昔、学生時代の頃、銅や真鍮で小さいものを作って、大手百貨店などに卸していたりしてたんです。
でも、大学卒業したときには、全く違う職種に、何となく就職しちゃったんです。そこで、サラリーマンは僕には無理だなあと思って、一月半で辞めちゃったんですね。
それで、元々やっていたことを再びやりだしたんです。たまたま、鉄の仕事の依頼があって、僕は、できないって、言ったことがないんで、じゃあやりますって言って。
友達の自動車屋さんの板金工場のガスとかをお借りして、今見ると、恥ずかしいものなんですけれど、お作りしたんですね。
それが最初(の仕事)で、それで、ロートアイアンに関するヨーロッパの本とかを読みだしていって、ヨーロッパには凄いものがあるんだなっていうのを知ったんですね。
■ロートアイアンと言えば、ヨーロッパでは、どの地域が盛んなのでしょう。
ドイツを中心として東ヨーロッパでしょうか。
技術的には、東ヨーロッパが進んでいますね。最新だと思います。
ルーマニア、チェコ、ハンガリー、先日行ったポーランドなども凄いですね。
■独学に近い形で始められたということになりますね。
実際に鉄をいじりだしたのは、27か8ぐらいだったと思います。
ほとんど、本を訳しながら、自分で解明して、作ってましたね。
それを38まで続けてました。
■ということは、10年間は試行錯誤だったと。
今も試行錯誤かな。
その時分は、今では2年分ぐらいのことを10年かけてやっていたようなものですね。
■初めの10年間は、具体的にどんなことに悩み、試みていたのでしょうか。
スタッフもいなかったので、経済的な悩みはさほどなかったんですし、そうですねえ、悩みというものはなかったですね。
楽しくてしょうがなかった。今もそうですけれど。楽しいですね。おカネのこと除けば。(笑)
■技術的な困難さとかは。
知らないままどんどん進んでいるので、あれをどうすればいい、これをどうすればいい、ということよりも、新しい技術を取得したときの喜びみたいなものがあります。
自分が新しい技術を発見したりとか、そういうときの喜びの方が、悩みとかいうよりも、格段に大きいわけですね。
■新しい技術というのは、たとえばどのようなものでしょう。
たとえば、ヨーロッパだと、栗鼠とかいったものを作る場合には、無垢で、まあ栗鼠に似てるけれども、ほんとに具象的な栗鼠じゃなかったりするんですね。
それを中空で鉄板で叩いて、合わせて、実際的な具象的なものに作るっていうことは、あまりヨーロッパではやっていなかった。
■目指されたのはよりリアルな栗鼠ということですね。
僕はそうだった。
それで、最初は、ヨーロッパは無垢じゃなくて、中空で軽いから、ちょっとばかにされたりしたんですが、今、だんだん受け入れてもらっているような感じがしますね。
■最初につくられたものは。
「逆さ富士」の門というのがあります。
始めて1、2年の頃に、試行錯誤しながら、作ったものです。
■あのイメージはどんなところから?
設計をやってる友人の依頼でした。その彼を、ああでもない、こうでもないと、案を出し合いました。ベースは和風だったんですね。それで、富士を逆さにする発想が生まれたように思えます。
あとは、もう、やりながら、絵もあまり描かないで。だから、あの絵はないんですよね。
■設計図を基に作っていくわけではない。直感ですね。
図面がない方が発見や創造に出くわすんですね。
そうですね。
でも、今は、スタッフにやってもらうんで、細かい絵を描きます。うちの工房でやるのは、全部僕が絵を描いてるんです。
ある程度、絵を描いて、クライアントに、これならできますよ、というような具合で進んで行きます。
■最も記憶に残っている作品というのは?
やっぱり、「逆さ富士」でしょうかね。技術がないなりに、一生懸命、試行錯誤したので。
あの作品を経験することで、いろんな鉄の柵だとか、いろんな文献を読むことになります。
たとえば、一本の鉄の棒をここだけ絞って、ここだけ叩いて細くして、鉄を赤く熱し裂いて広げて穴を作り、そこに突き刺して、こっちをつぶすと、止まりますよね。
そういうロートアイアン特有の技術や知識を始めて知った。何でも溶接だと思っていたのが。
■文献を片手に作り上げていったわけですね。
そうです。棒を叩いて細くして、穴に通して、こっちをつぶす。
中には、英語とドイツ語、2つ表記がある本もありまして、その英語のところを読みながら進めます。
■影響を受けた鍛鉄家はいらっしゃいますか。
直接はないですけど、アメリカの Albert Paleyかな。
初期の頃に買った本で、凄い自由なものを作っていたんで、共感を覚えましてね。お会いしたことはありませんけれど。
■先進的なヨーロッパの技術を独学で摂取してきたわけですが、今や、日本の鍛鉄の世界を代表されるお一人として、作風的にも、技術的にも、ヨーロッパの技術に影響を受けるということにはありませんね。
すでに西田光男の鉄の独創的な世界が存在していた?
最初から、ロートアイアンを知らないときからやってきていたので、そうでしょうね。
ヨーロッパの人たちなんか、可愛い恐竜なんか作ったりしないと思いますね。(笑)
おどろおどろしいものは作るんですけれど、竜なんかは作らない。ちょっと触りたくなるようなものってないんですよ。
先日のポーランドでも、いろんな人の作品を見せてもらったんですが、持ってくるんですよ、見て、見てって。見ると、おどろおどろしい、怖いものばっかりで。コウモリとかね。(笑)
■これまでお作りになった作品数は。
2000から4000とかじゃないですかね。数えたことがありません。
■膨大な作品を貫く西田ワールドのテーマとか、共通のモチーフとかはあるんでしょうか。
それはやっぱり、門やフェンスもそうなんですけれど、ちょっと何か、基本的に、道具なんですよ、作っているものは。すべて道具なんですよ。基本はね。そこに、アートが入っている、ということだと思います。
■道具+アートの世界ですね。日常に密接でアートが混ざり合っているというような発想ですか。
そうですね。門にしても、看板にしても、そうですね。
そして、そのなかに、何か、ちょっと、クスって笑える、ちょっと気持ちが温かくなるようなモノを、ちょっとだけまぶしている、というようなところがありますね。
■西田さんがロートアイアンに込める思いというのは、近寄りがたいものではなくて、触りたくなる、親しみのあるもの。
道具ですからね。
触りたくなるような、触れたくなるようなものかなあ。
たぶん、ヨーロッパの人たちは、違って、こんなかわいいの嫌だと言うかもしれない。(笑)
■ヨーロッパの文化って、大雑把に言えば、独立排除的な美を求めます。
自分の住んでいる街そのものを石で覆って、門で囲んで隔絶するとか、そういうのっていっぱいありますよね。なんかちょっと違うのかな。
■西田さんにとって、「鉄」ってなんですか。ひと言で。
いろんなところで、よく聞かれて、言うんですけれど、構造物から、小っちゃいものから、何でもできちゃう、というところかなあ
銅や真鍮で、建物はできないですよね、鉄ならできるけど。
一番、地球にも、豊富な鉱物で、凄い身近なものだし、それがこんなに変わっちゃうんだよっていうところが、ありますよねえ。
■魔法みたいな。
ふふ、ふ、ふ。(笑)
■では、魔法のような鉄を素材にして作られる鍛鉄、ロートアイアンの魅力ってなんでしょう。
ロートアイアンの魅力っていうのは、やっぱり、今ある溶接の技術を使わないで、鉄がこんなふうに組まれちゃう、っていうところかなあ。
また、自分がよくやる恐竜だとか、面で叩きだす魅力もありますよね。そういう造形物には可能性がありますね。
FRPだとか、そういうものとは違う、徐々に創り上げていく魅力ですね。アリ塚のように、徐々に作り上げていく面白さがあるかな。
■ロートアイアンの場合、コラボレーションとなる機会が多いですね。印象深い作品はありますか。
やっぱり「ムーミン」(あけぼの子どもの森公園)でしょうかね。
あのときは、村山雄一さんという方が設計で、手摺を作ってくれる人がいないっていうので、僕に依頼がありました。
村山さんとはその時始めてお会いしたのですが、よくデッキに使うような縞板があって、これを面に使って欲しいということ以外、細かいことにはあまり彼は言いませんでした。
■現在の日本のロートアイアンをどう捉えていますか。
僕が一番危惧しているのは、たとえば、大工の世界を見ても、今、家を建てるのに、学校を卒業してきて、経験もないのに、次の日から、金槌ではなくエアーのハンマーで釘をバンバン、バンバン打ちつけただけの家を作っていってします。
一方で、昔、今でも、宮大工さんていらっしゃいますね。彼らは、木を切り倒してきて、削って、組木だの、細かな作業、難しい細工をいっぱいしますよね。
そういう技術を鉄でやっているのが、私たちなんですよね。まるで釘でバンバン、バンバン打ち込むように、溶接してしまって、固めて、形だけ同じようなものを作っても、それはロートアイアンとは僕は呼びたくないんですよね。
じつは、日本には、そういった形だけ真似て、そういうことをワーッとやっていく人たちがどんどん増えていってしまっているんで、それを今、ちょっと、これは困ったなと、思っているんですよね。
■そういった危機感がこの工房での運営につながっているわけですね。
自分は、きちっとしたものを伝えていく義務があるかなと思っていて、それで若い人たちをいっぱい入れて、彼等を送り出しています。それが自分の使命かなと思ってやっているわけですね。
だから、生活はちょっときついですけれど、3年、5年で送り出すから、いつも苦しいんですけれど。戦力となる頃になるともう追い出しちゃうので。(笑)
■お弟子さんにとってはありがたい。
有難いでしょうねえ。
■商業主義に距離を置いたと書かれていました。日本にはロートアイアンに限らず、文化の理解が低い。
ある銀座のクラブにアール デコのデザインを採り入れたも門扉を作ったときですね。
ちょうどバブルの時だったんですけれど、その後、ちょっと銀座に行ったんで、どんな感じかなあと見に行ったら、もう自分がつくった幻燈がないどころか、お店もなければ、そのフロアーが小っちゃなバーがいっぱい入っている形に変わってたんですね。
自分が作ったものはもうどこに行ったか分からない。
だから、その個人の思い入れがあってね、オーナーシェフで、店を一所懸命構えていて、じゃあその店の看板をつくってくださいっていうんならやります。
そうではなくて、たとえば、ある実業家の方が、今、儲かるから、これをやってチェーン展開するとかいうのは、やっぱり、もうモノづくりの人間からすると、寂しいので、最初からお断りしていますね。
それから、図面で来るような仕事も、そうですね。
結局、ただ作る人間で、そのクオリティとか関係なくて、その金額が先行しちゃったりする場合とか、ありますよね。そういうのも、その時点で、お断りします。
やっぱり、自分が作りたいものをデザインして作る方がいい。
■スタッフの方々も図面がない。
スタッフも、僕がデザインしたものを作ってはいるんですけれど、細かいことまで言わないようにしています。ある部分から、なるべく考えてもらう。
■自主性がないと創造性に結びつかない。
僕自身が、細かいことを言われて嫌なように、彼等も、僕が細かいこと指示して、やらせるってことは、同じことですよね。
逆のこと、僕はさせてる感じになるんで、なるべく言わないようにしている。
■此の秩父に来た理由は。
住まいと隣接していた小さな工房では、達成できない2つ理由があって、音がうるさくて近所迷惑になる。もう一つは、鍛鉄というものを日本でちゃんとしたものにしたいというのがあったんです。どうせ工房作るんだったら。
それで、38の時に、ドイツとスイスのいろんな工房を見て、自分が本で見た工房を回る旅をしたんです。その時に、自分が、人を入れて工房式でやるには、ある程度の広さが必要だと思いました。
それで、普通の倉庫みたいだと人は見向きもしないだろうから、とにかく建物もおしゃれに、独創的に、どうせやるなら徹底してやろうと。
当時、九千万借金したんです。よく貸してくれたなあ。(笑)
■丸ごとですか。
はい。機械から土地から、建物から、全部。(笑)
■pageoneという工房のネーミングは。
よくトランプのゲームで遊んでいて、1枚になると、pageoneと言いますでしょう。
最後の切り札ですね。
■工房は、皆さんにとって何でしょう。チーム、ファミリー、道場、、、、
チームであり、修行場ですかね。
現在では、9人、実際には、8人が独立してやってるんですけれど、なにかあれば
手伝いに来てくれますからね。高知、奈良、大阪、長野、で、この近辺にもいますね。
■現在のスタッフの方は。
5名ですね。ご覧の通りです。
■トライアスロンをやっていらっしゃいます。後ろに見える破風山(ハップサン)までトレーニングされるとか。なぜトライアスロンなんですか。
きっかけは、子どもが通っていた茨城の学校で、遠泳大会に呼ばれて参加したのが始まりです。会長をやらせられていたんですが、会長だけが4キロ遠泳に参加する権利があるらしいんです。(笑)
昔からサッカーやってましたし、体育会系のアーチストの僕としては、そういうものに参加しないわけにはいかないんで。(笑)
練習して平泳ぎは4km泳げるようになったのですが、トライアスロンはクロールだと知りまして。(笑)
それまで25mぐらいは無呼吸で泳げていたのですが、娘に息継ぎを教わって、2キロぐらい泳げるようになりました。
そしたら、水泳部の顧問が参加していて、彼が、「トライアスロンやっているんですよ」と言うわけですよ。ちょっと太った体で。こんな体でできるスポーツなのって。(笑)
いろんなカテゴリの大会がありますから、鉄をやってる関係上、鉄人だし、ちょっとギャグ半分で始めたら、病みつきになってしまいまして。(笑)
■いろんな大会に参加されています。
最初は2レースでしたが、翌年は11レース出ましたね。
長いレースが面白いので、だんだん長くなり、短いレースは出なくなりました。
■記録は。
長い距離のトライアスロンは競争じゃないんですよ。感想したら、みんな勝者みたいな感じなんですね。順位を争うのはトップアスリートだけ。
アイアンマン大会とか、宮古島とか、佐渡とかで、3キロとか、3.8キロを泳いで、自転車が155キロから180キロ、後はフルマラソンです。
ロタの大会では、僕はトロフィーを提供しているんで、選手権スポンサーで参加しています。自転車レースで、ちょっと鎖骨骨折して、出なかった時もありますが。
毎年11月にやります。今年も行きます。
■何が面白いんですか?
やっぱり達成感でしょうか。
そこに行きつく、練習も結構楽しいですね。
■ロートアイアンを作っているときのプロセスと似てますか。結びつけるのは良くないですよね。アイアンマンだけでしょうね。
(笑)
■学生時代、米軍基地のハウスにいらっしゃいましたね。
僕が大学1年生の時、横田基地のハウスに住み始めたんですね。
住み始めた当時は日本人は少なくて、ちょうどベトナム戦争が、終わるころですよ。それで、ハウスがどんどん空き家が出ちゃって。それで、一軒ハウスを埋めるということになって、学科の後輩をどんどんいれたんですが、その中に、村上龍がいたんですよね。
僕が入れた後輩がさらに呼んできたのが村上龍だと思います。僕は、150番と240番のハウスに住んでいました。彼は何番でしょうかね。
■その頃、考えていたことって、今、どうなっていますか。持ち続けている。
その時から引き継いで持ってることっていうのは、束縛されない、かな。
自由にしている。組織に入らない、リベラルということ。
■リベラルというのは作品の中にも入っている。
ああ、生きてるかもしれない。
自由ですからね。縛られてないかな。
■今、何を一番作ってみたいのでしょう。
それ、よく聞かれます。いつも答えるのが、今、自分の頭にぱっと、ないもの。
作りたいモノがあれば、限定されちゃうので。今、頭に発想がないものを作りたいですね。
■鉄は無限だということでしょうか。
後ろに破風山(627m)の頂上が見えていますね。日頃、トレーニングで昇るようですが、鍛鉄工芸家としての最終ゴールってありますか。
やっぱり日本で、一つの職業として、この職業が認められる。
見たら珍しい、というものではなくて、普通にね。
取材文責:WASEDABOOK編集部